ヴィシュヌの母親であるガーネットに婚約の挨拶をして、更に『帝王』と称されているムエタイの強者との戦いを行った上で開かれた宴でヴィシュヌと婚約関係を道場の門下生に認めさせた夏月だが、今日も今日とて早朝に目を覚ますと、日課となっている早朝トレーニングを開始。
先ずはヴィシュヌの実家の敷地内を周回する形で軽くランニングを行い、ランニングを終えた一分ほどのインターバルを入れてから後は腕立て伏せや腹筋、ベンチプレス等のウェイトトレーニングを行い、その後にヴィシュヌと共にヨガを応用した柔軟体操を行って筋肉の剛性と柔軟性を同時に鍛えるのが夏月の朝のルーティーンなのだが、今日は少しばかり勝手が違っていた。


「帝王と互角に渡り合う実力があるって言うのに、日々其れだけの濃密なトレーニングを欠かさないって言うのは感心出来るよ。」

「俺は凡才なんで、日々これトレーニングじゃないと、周りに置いてかれちまいますからね。」

「君が凡才と言うのなら、世の人間の大半は凡才未満と言う事になるわ。まぁ、驕らずにストイックに努力を続けられると言うのは素晴らしい事よ。
 其れよりも、まだ体力は残ってる?」

「バリバリ残ってますよ!」

「スタミナも申し分ないか……それじゃあ、本日のトレーニングのシメに入るわよ。」

「お母さん、楽しそうですねぇ……」


ランニング後にトレーニングを行っていたのは道場で、その様子をガーネットが見ていたのだ。
学園では寮とトレーニングルームが離れているので中々ダンベル運動やベンチプレスを行う機会がないのだが、ガーネットのムエタイ道場には一通りのトレーニング器具が揃っており、ランニングから帰って来て直ぐに使う事も出来るのでトレーニング器具を使った運動も行っていたのである。
其のトレーニングの内容の濃さと、此れだけのトレーニングを行っても汗は掻いても殆ど息が上がっていない事にガーネットは感心すると同時に、ヴィシュヌから聞いていた夏月の凄まじいトレーニング内容は事実だったと認識した。
実は内心では『多少は話が盛ってあるだろうし乙女フィルターも掛かっているだろう』と思っていたのだが、実際に目にした夏月のトレーニングはガーネットの想像を超えたモノであり、『道場の門下生に同じトレーニングをさせたらもっと強くなるのでは?』と考えた位だ――尤も、同じトレーニングが出来るようになるには相当な時間が掛かると考えてもいたが。
そんな夏月の本日のトレーニングのシメは木刀を使った素振りではなく、ガーネットが構えたミットに打撃を打ち込む『ミット打ち』だ。
ガーネット自身が夏月の力を肌で感じたいと言う理由もあったのかも知れないが、夏月はガーネットの指示する場所に指示された打撃を打ち込み軽快にミット打ちを熟して行き、時には蹴り→肘→拳打の連続技までもキッチリ決めて見せた。


「さぁ、最後だよ!左右のコンビネーションから回し蹴り、最後に昨日帝王から学んだ必殺技!」

「ボディがお留守だぜ!カイザーァァァ……ニー・キャノン!!」


ミット打ちの最後は夏月が左のボディブロー→右のアッパーカット→左上段回し蹴り→帝王直伝カイザー・ニー・キャノンのコンボを見事に決めて終了――コンボの締めであるカイザー・ニー・キャノンを放つ前に、ヴィシュヌがスマホで『KOFの超必殺技発動時効果音』を鳴らしたのはちょっとした茶目っ気と言う奴だろう。
ミット打ちが終わるとガーネットは満足そうな笑みを浮かべて、『改めてヴィシュヌの事を宜しく頼んだよ!』と言い、夏月も『勿論です』と返し、ヴィシュヌも『逆に、夏月以外に私の事を頼める男性は居るのでしょうか?』と言っていた……取り敢えず、道場の門下生達はヴィシュヌの事をアイドル的存在として慕っており、『本気』に『マジ』とルビを振るレベルでヴィシュヌに惚れてる門下生も居たのだが、ヴィシュヌからしたらマッタク恋愛対象としては認識されていなかったようである。

ともあれ本日も日課であるトレーニングを終えた夏月はシャワーを浴びて汗を流すと、朝食が出来上がるまでの間にヴィシュヌからタイ式マッサージで身体を解してもらい、其れが終わると今度は夏月が独学で身に付けたマッサージでヴィシュヌの身体を解してやった。
そして、マッサージの後はガーネットお手製の朝食を食べてから軽く近所を散策した後に夏月は次の目的地であるオランダに向かう為に空港へとやって来た。
空港にはヴィシュヌとガーネットだけでなく、ガーネットの道場の門下生達も見送りに来ていた。


「また来いよ!負けっ放しってのは性に合わないからな!」

「俺に勝ちたいなら、先ずはスタミナを付ける事だ……今度戦ったその時は、途中でガス欠を起こさないようにしとけよ?つっても、今度会う時は俺も今よりも強くなってるから負ける気は無いけどよ。」

「減らず口を……でも其れ位じゃないとな!
 俺達からヴィシュヌちゃんを奪って行くんだ、だったら俺達の誰よりも強くないと納得出来ないからな!」

「なら、俺は常に最強でいらるようにしないとだな。」


門下生の一人とがっちりと握手を交わした夏月は、ヴィシュヌと『今度は日本で』との約束をすると別れ際の抱擁を交わした後に搭乗ゲートを潜ってオランダ行きの便へと乗り込むのだった。
その際に、夏月は振り向く事なく後ろ手に手を振り、最後に腕を上げてサムズアップして見せたのが、其れがなんとも様になっており、ともすれば映画の一場面としても使えそうなモノだったので、其れを見た道場の門下生達は『絶対に勝てねぇ!』と絶望していたとかなんとか。












夏の月が進む世界  Episode49
『嫁ズの家族への挨拶Round4~オランダ~』










凡そ九時間のフライトを経て到着したオランダのアムステルダム国際空港。
北半球の国なので季節は夏だが、赤道に近いタイと比べるとその気温は夏であっても過ごしやすいモノと言えるだろう――夏月が滞在した際のタイの最高気温はバンコクで観測史上初となる二日連続での四十度越えを記録していたのだ。そんな中でもトレーニングを普通に行っていた夏月が大分ぶっ飛んでいるが。
対するオランダの首都アムステルダムの本日の予想最高気温は二十四度なので半袖で過ごしやすい陽気と言えるだろう。

飛行機を降りた夏月はパスポートのチェックと手荷物検査をパスした後で、ベルトコンベアで流れて来るキャリーバックを受け取ると空港のロビーに。
約束ではロランが迎えに来ている筈なのだが、ロビーにロランの姿はなかった――『若しかして到着窓口を間違えてるのか?』と思って、他の到着窓口を探してみてもロランは見当たらなかった。


「ロラン、何かあったのか?」


約束の時間は守るロランだけに、此の場に居ない事に一抹の不安を覚えた夏月はスマートフォンを取り出してロランに連絡を入れようとしたのだが――



――♪~~



その直前に耳に入って来たピアノの音色に其の動きが止まった。
このアムステルダム国際空港には最近よく耳にする『空港ピアノ』なるモノが存在していて、空港を訪れた人々は自由にそのピアノを弾く事が出来て、その様子は動画サイトやテレビでも公開されていて、夏月もその動画を見た事があるのだが、其れでも夏月の足は音のする方へと向かって行ったのだった。

そして、音源へと辿り着いた夏月が見たのは空港ピアノで聞いた事がない音楽を奏でる銀髪のショートカットが特徴的な少女だった――そう、ピアノを奏でていたのはロランだったのだ。
夏月からオランダ行きの便に乗ったとの連絡を受けたロランは、夏月が到着する時間に合わせて空港を訪れて空港ピアノを奏でて夏月を迎えたのだ。
その旋律は時に柔らかく繊細ながら、時に力強く荒々しく、またある時は力強さと優しさを兼ね備えた旋律を奏でてくれた――誰も聞いた事のないピアノ曲であり、ロランのオリジナルのピアノ曲なのかもしれないが、その旋律には誰もが聞き入っていた。



――パチパチパチ!



だがそれでも、演奏が終わったその時に真っ先に拍手を送ったのは夏月だった――そして、其れを見たロランは額に汗浮かべながらも笑みを見せ、夏月にサムズアップして見せた。
夏月だけに捧げるロランオリジナルのピアノコンチェルト、其れを捧げる事が出来たと言うのはロランにとっては大きいだろう。


「見事な演奏だったぜロラン……今のは何て曲なんだ?」

「今のは私のオリジナルの曲で、まだ曲名はないのだけれど……そうだな、敢えて曲名を付けるのならば『Een nacht en zomermaan』かな?日本語で言うなら『一つの夜と夏の月』と言うところだね。」

「俺の名前を分割したってか?……センスいいよロランは。そのセンスの良さには脱帽するぜ。」


演奏を終えたロランに夏月が近付き、そして抱擁を交わした後に触れるだけの軽いキスを交わす。
まさか空港ピアノの演奏で出迎えられるとは思っていなかった夏月だったが、そのサプライズに満足すると同時にロランの演出力の高さにも驚いていた――世界一周と言っても過言ではない嫁ズの家族への挨拶旅行だが、此れまで訪れた台湾、中国、タイではこんな演出をもってして夏月を出迎えた国は無かったので、夏月としても新鮮さを感じていた。


「ようこそオランダへ夏月!早速だが、私の両親を紹介させて貰おうじゃないか!」

「あぁ、頼む。お前の両親にお前と婚約関係になったって事を知らせるために来た訳だからな……目指せ四連勝!」

「まぁ、君ならば大丈夫だと思うけれどね。」


ロランからサプライズの出迎えを受けた夏月は、ロランと共に空港を出るとロランの案内で市内の美術館へとやって来ていた――勿論、ロランも只連れて来た訳ではなく、この美術館では現在ロランの父親が個展を開いており夏月の事を紹介&夏月が挨拶をするために連れて来たのだ。
ロランの父親は偏屈な芸術家であり、ロランが幼い頃は夫婦間での口論が絶えず家庭内もギスギスしていたのだが、其れは父親の作品が世に認められて行くと共に解消されて行き、ロランの父親は現在では『現行のオランダの芸術家では最高クラス』との評価を得るまでになっていたりする。
因みにロランが劇団に入団したのは家庭内がギスギスしていた時期であり、母親が『劇団にでも通わせて、自分と夫の間に流れてるギスギスした雰囲気とは少しでも触れる時間を減らした方がロランの精神衛生上良いのかも知れない』と考えてロランを入団させたのだ――そんな理由で演劇の世界に飛び込んだロランだったが今では劇団屈指のトップ女優になっているのだから、演劇はロランにとっては天職だったのだろう。


「親父さん、芸術家だって言ってたな前に。」

「芸術家故に少し偏屈で変わり者だけれどね。
 私の『ロランツィーネ』と言う名前も父が考えたんだ……既に苗字が長ったらしい上に読み難いと来ているのに、其処にこれまた長い名前を付けると言うのはとても珍しい事ではないのかと思うのだよ。
 まぁ、私はこの名前をとても気に入っては居るのだが、IS学園に行くまでは初対面の相手には先ずフルネームを正確に呼ばれた記憶がない……故に、初対面でイキナリ私のフルネームを正確に呼んだ織斑君とオルコットさんには驚いたよ。」

「ホント、お前の名前を初見で正確に呼ぶ事が出来る奴って殆ど居ないと思うからな……そして其の長い名前は親父さんが考えたモノだったのか――確かに変わり者だなこりゃ。」


美術館では複数ある展示室を使って数人の芸術家、美術家が共同で個展を開いており、ロランの父親も其の内の一人であった。
ロランの父親は最初は画家として活動していたのだが画家としては全く芽が出ず、何度目とも分からない妻との口論の際に『売れない画家なんて止めてしまえば良い!』とハッキリ言われた事が逆に天啓となり、芸術家でも全く畑違いの彫刻家に転身したところ此れが大当たりとなり、オランダでも指折りの彫刻家として名を馳せているのだ。
入り口で個展のチケットを購入した夏月とロランは個展巡りをしながらロランの父親が個展を開いている展示室に向かって行った――その道中の個展では色鮮やかなチューリップ畑を描いた風景画や、愛娘を描いたと思われる肖像画と言った分かり易いモノから、一見すると……否、よく見ても何が描かれているのか判別不能な抽象画や何を表現したのか良く分からない現代アート等もあって色んな意味で楽しむ事が出来た。


「作品名『聖なる光』……此れは『混沌』の方が的確ではないかと思うのだが如何だろうか?」

「いや、此れは普通に『グニャ』だろ。此れ多分明日来たら今日とは違う形になってるぞ?夜中の間に変形してるんじゃないのか?絶対するだろ此れは?」

「其れは若干ホラーだが……確かにそうなってもオカシクない形をしているね此れは。」


如何とも表現し難い現代アートに中々に突っ込みどころのある感想を言いながら、二人は目的であるロランの父親の個展が開かれている会場に到着した。
展示室の前のテーブルには一組の男女が――此の二人こそ、ロランの父親である『ジョセフ・ローランディフィルネィ』と母親である『ミーネ・ローランディフィルネィ』である。


「やぁ、来たよ父さん母さん。」

「おぉ、待ち侘びたぞロランツィーネ!」

「其れで、其方の方が……」

「一夜夏月、私が婚約している男性さ。」

「初めまして、一夜夏月です。ロランツィーネさんとは結婚を前提にお付き合いさせて頂いています。」

「ふむ、ロランツィーネから話は聞いていたが、中々の好青年だな?ロランツィーネの父のジョセフ・ローランディフィルネィだ。」

「うふふ、想像していた以上のイケメンさんでビックリしたわ。初めまして、ロランツィーネの母のミーネ・ローランディフィルネィです。」


先ずは挨拶と自己紹介。
その際に夏月は『ロランと結婚を前提に交際させて貰っている』と言ったのだが、オランダ政府がロランの事を夏月の婚約者とした事はロランの両親も知っていると言うかオランダ政府から直接『アンタ達の娘を一夜夏月の婚約者にするから(要約)』と聞かされていたので驚く事は無かった。
其れでも一人娘が世界初の男性IS操縦者とか言うどこぞの馬の骨とも知れない人間の婚約者になってしまった事に一抹の不安も無かったと言えば嘘であり、ロランの事を案じていたのだが、当のロランからは『夏月は女優としての私の最初のファンで、言動は少し粗野な部分もあるけれど行動は紳士だ』と聞かされていたので夏月と実際に会うのを楽しみにしていたりするのだ。


「ふむ……服装こそ少々ラフではあるが、成程これは確かにロランツィーネが言っていた通り紳士のようだ。普通ならば怖い印象を与える顔の傷痕もワイルドな魅力となっている……何よりもロランツィーネは腕を組むほどに彼の事を慕っていると来た。
 此れは、私達がとやかく言う事は無いかな母さん?」

「えぇ、私達が口を挟む余地はありませんよお父さん。」

「ならば……ロランツィーネの事を宜しく頼むよ夏月君。君ならば娘を任せても安心だと、実際に会ってみて実感した。」

「まさか楽勝の四連勝となりましたとさ……まぁ、修羅場が展開されるよりはずっと良いけどよ。」

「父さんは芸術家故の偏屈さがあるから夏月の事を色々言って来るのではないかと思っていたから、こうもストレートに認めて貰った事には私も驚いているよ……最悪の場合は娘と父の拳のキャッチボールも覚悟していただけにね。」


そうして実際に会った夏月は顔の傷痕こそ少し怖い印象を与えるが、態度は紳士であり腕を組んだロランに美術館を案内されながらも出来る限りのエスコートをしており、ジョセフとミーネへの挨拶も礼を失しない紳士然とした態度で行い、其れが好印象でジョセフとミーネに『娘を任せても大丈夫だ』と判断させたのだ。
ロランとの婚約関係を認めて貰った夏月は、『ディナーは一緒にしよう』と言われてディナーまではロランの案内でオランダ観光をする事になった――のだが、この美術館での個展では、来場者の体験コーナーを設けているブースもあったので、夏月とロランは『ガラス細工』の体験コーナーにて所謂『切り子グラス』の制作を行っていた――夏月は瞳と同じの金色、ロランは髪と同じ色の銀色のグラスを選択して切り子模様を刻んで行き、素人故の粗さはあるモノの見事に仕上がった『世界に一つだけの切り子グラス』を完成させていた。

そんな『世界に一つだけの切り子グラス』を作った夏月とロランは美術館を出て市街を散策していた。


「そう言えば夏月、今日は地元のサッカーのクラブチームが試合を行うんだが見に行かないかい?」

「オランダは滅茶苦茶強豪って訳じゃないけど、ワールドカップとかでは予想外のダークホースになる事が少なくない隠れた名チームなんだよな……その試合を生で見る機会ってのは中々無いから観戦させて貰うとしようかな。」


ロランの提案で地元のサッカーのクラブチームの試合を観戦する事になり、試合が行われる市営スタジアムまでやって来た夏月とロランは、折角だからと『フェイスペイント』も行い、ロランは両方の頬にオランダ国旗をペイントしたのだが、夏月は顔面を真っ赤に塗り、顔の中央に黒で一本線を入れ、頬に鏡文字で『忍』と『炎』と入れた『グレート・ムタ』のペインティングで登場した。
そのインパクトは絶大で、周囲の観客を驚かせたのだが、夏月は地元のクラブチームが先制すると歓声を上げる代わりに緑の毒霧を噴射するパフォーマンスを行って他の観客から拍手喝采を浴びていた……毒霧噴射後に忍者ポーズを決めていたのも大きいだろう。
後半はハーフタイムでペイントを落として大人しく観戦し、売り子からファーストフードである『フリカンデル(皮なし挽き肉ソーセージを揚げた料理)』、『レッカーベキェ(イギリスのフィッシュ・アンド・チップスに似ているが、香辛料で上品に調味して衣がより天ぷらに似たタラの揚げ料理)』、『ウナギの燻製』、『ロルモップス(ニシンの酢漬け)』等を購入してオランダグルメを堪能した。
試合は1-1で迎えた後半のアディショナルタイムに地元のクラブチームがロングパスを受けたフォワードが見事なドリブルで切り込み、ペナルティエリア外からのミドルシュートを決め、此れが決定弾となって地元クラブチームが勝利したのだった。
そんな劇的な試合を観戦した後でロランが夏月を案内して来たのは無人のビルであった。


「この無人ビル……此処は若しかして……」

「そう、私と君が初めて会った場所だよ夏月。」


その無人ビルは夏月とロランが初めて会った場所であり、夏月がロランのファン第一号となった思い出の場所だったのだ――夏月にとってもロランにとっても大切な場所である此の地を訪れたと言うのは、ロランの粋な計らいと言えるだろう。


「正直な事を言うとね、あの時此処で一人で練習していたのは少し不安があったからだったんだ。
 初舞台で、其れもイキナリ主役を任されていたからね……其れだけ私の演技の腕前を買ってくれたのだと言う事は分かっていても、其れが『期待に応えなければ』と自分にプレッシャーを掛けてしまっていてね。
 でも、君と出会った事でその不安やプレッシャーは吹き飛んでしまったんだよ夏月。」

「俺と出会ってって、何でだよ?」

「演技の練習を見られていたと言う事は勿論驚いたのだけれど、其れを見ていたのは私と同じ位の歳の男の子で、顔には大きな傷跡があって目の色はとても珍しい金色だったのにはもっと驚いた。
 そうして現れた君に私は明日が初舞台でしかも主役だと言う事を話したら、練習を見ていた君は『納得した。』と言ってくれただろう?加えて『演劇には明るくない俺でも、ロランの演技のレベルが高いって事だけは分かったからな。』とも言ってくれた。
 そう、演劇に関してはマッタクの素人である君に私の演技のレベルが高いと言って貰えた事で私の不安とプレッシャーは吹き飛んだ……演劇に詳しくない人間を感動させたり納得させると言うのは中々に難しいんだ……目が肥えていないからこそ一切のフィルターがない状態で演技を見るからね。
 そんな君に私の演技を高評価して貰った事で不安とプレッシャーは自信に変わったのさ――君が私のファン第一号になってくれた事も大きかったよ。」

「そうだったのか……俺としては率直に感想を言っただけだったんだが意外と大きな影響与えてたんだな。」


其の場所でロランは当時の心境を夏月に話していた。
十三歳で初舞台と言うのは無い事ではないが、初舞台でイキナリ主役と言うのは中々無い事であり、当時のロランは相当な不安とプレッシャーを感じていて、其れを振り払うように演技の練習をしていたのだが、夏月と出会い、そして己の演技を評価されて更には最初のファンになった事で不安とプレッシャーは自信に変わって吹き飛んだと言うのだ――その結果として初舞台は大成功に終わり、そして公演回数が進むごとにロランの演技がSNS等で話題になり、公演の千秋楽は劇場が超満員札止め状態になり、立ち見客を入れても入りきらなくなってしまい、急遽千秋楽の公演回数を増やす事態になったほどであったのだ。
そして此の初舞台を皮切りに舞台女優としての頭角を一気に現したロランは所属劇団に欠かす事の出来ない花形女優に成長したのである――男役を演じる事が多かったが故に、女優でありながら女性ファンの方が多いと言う不思議な現象が起きてしまったのはロラン自身も予想外だったが。


「もしもあの時君と出会っていなかったら、私は舞台女優として大成する事は無かったと思っているんだ……私の夢を後押ししてくれたのは君なんだ……あの時君と出会ったのは正に運命の出会いだったと言う訳さ。
 大女優になってから日本に行く心算だったけれど、IS適性がある事が判明したので其方も頑張ったらオランダの国家代表になってIS学園に行く事になって、ISの生みの親である束博士から専用機を貰って、そしてIS学園で君と再会して――改めて振り返ってみると君と出会ってからの人生はなんとも激動の人生だったが、其れだけに君との出会い、そしてIS学園で再会した事に、乙女座の私は運命を感じずには居られなかった……君は如何だい夏月?」

「まぁ、俺もIS学園でお前と再会した時は驚いたよロラン……生憎と俺は乙女座じゃないから運命なんてモンは感じなかったけどよ――運命じゃなくて、俺とお前が再会するのは必然だったのかもな。」

「必然か……確かに其方の方が運命よりも良いかも知れないね。」


二人にとって大切な場所で抱擁を交わすと、触れるだけのキスをして其処から暫くの間抱擁をし、廃ビルの窓から入り込む光が夏月とロランを照らしていた。

思い出の場所を後にした夏月はこれまたロランの案内で市内の劇場にやって来ていた。
ロランは『私の凱旋公演をやっているから、夏月に見て欲しいんだ』との事で、夏月には断る理由もないので有り難くロランの舞台を見る事になった――のだが、ロランが舞台に上がる度に湧き上がる黄色い歓声に少し引いていた。
ロランは男役を演じる事が多いので女性のファンが多いと言うのは聞いていたが、よもや此処までとは思っていなかったのだ――その歓声を上げているのは、『ロランの九十九人の恋人』と称されている特に熱狂的なファンなのだが。
同時に此の『九十九人の恋人』はロランにとっては頭が痛くなる存在でもあった――女優としては熱狂的なファンは悪くないが、夏月の婚約者としては有り難くないと言えるのだ。
熱狂的過ぎてロランを妄信している者も居るので、そのロランと婚約状態になった夏月の事を敵視している者も居るのだ――『ロランの意思ではなくオランダ政府が決めた婚約』と考えているのだろう。
だからこそ、ロランは夏月がオランダを訪れた際に一計を案じていた。

ロランの凱旋公演で演じられてたのはロランのデビュー作となる作品で、マスクで顔を隠した姫騎士が悪を倒していくと言うモノだったのだが、此の日の公演では此れまでとは異なり終盤でマスクの姫騎士が敵に囲まれて絶体絶命の状況に陥っていた。
姫騎士は父親である王を守らねばならないが自分も死ぬ事は出来ない――だが、此の状況では己の生存と王の生存の何方かを犠牲にしなくては何方も悪党に討たれてしまう。王を逃がせば自分が死ぬ、自分が助かるように動けば王が死ぬ、正に最悪の窮地なのである。
そんな状況の中で、ナレーターから『其処に救いのサムライが現れた』とのアナウンスと同時に客席に居た夏月にスポットライトが当てられた。
突然の事に驚いた夏月だったが、『彼こそが此の状況を打開するために現れた東方よりやって来たサムライであり姫騎士の盟友である!』とのアナウンスを聞くと苦笑いを浮かべ、内心では『やってくれたなロラン!』と思いながらも『こうなった以上は行かないとだよな』と気分を切り替え、席を立って舞台へ向かい、舞台に上がる前に舞台下に居たスタッフから小道具の刀を受け取ると颯爽と舞台に飛び乗り、其処から悪党役数人と剣戟を行った後に、神速の居合いを繰り出し、居合い後にスタイリッシュに納刀したところで悪党は全員崩れ落ちてターンエンド――小道具なので殺傷能力は皆無なのだが、悪役の演者達は実に見事なやられっぷりを披露してくれたのだった。
そして其の後は、仮面の姫騎士が窮地を救ってくれたサムライに素顔と名を告げ、そして結ばれると言う流れで劇は終わり、拍手喝采となったのだが、其れでは終わらず……


「私の九十九人の恋人よ、彼は、一夜夏月は私が生涯で唯一愛した男性だ……そして私の心は彼の虜になってしまっているんだ――君達の事は無論大切なファンだが、夏月とは違う。
 私は君達に愛を与えているのかも知れないが、夏月は私に愛を与えてくれるんだ……愛されるのではなく愛してくれる存在、私にとって夏月はそんな存在なのさ。
 君達が真に私のファンであるのならば、夏月の事を認めて欲しい。」


ロランは舞台上から『九十九人の恋人』に対して『夏月の事を認めろ』とダイレクトアタックをブチかましたのだ。
『九十九人の恋人』はロランの予想外の宣言に驚き、中には舞台上の夏月に対して敵意の籠った視線を向ける者も居たが、『オランダ政府の決定ではなくロランの意志で夏月と婚約状態にある』と本人の口から直接聞かされた事と『真のファンであるのならば夏月の事を認めて欲しい』と言われてしまったら何も言えない――此れ以上夏月の事を敵視するのは、其れこそロランへの裏切りになるのだから。
そして其の夏月に関しても、たった今目の前でプロの役者にも見劣りしないアクションを見せ付けただけでなく見事にロランとの『共演』を果たしたのだから、認めない訳には行かない。
自分達が練習に練習を重ねたとしても、あれ程のアクションとロランと共演出来るだけの演技が出来るとは早々思えないからだ。
そんな訳で、些か強引な力業ではあったがロランは見事に『九十九人の恋人問題』を解決して彼女達に夏月の事を認めさせたのであった――因みに今回の一件はSNSで拡散され、その結果ロランのファンが爆増したのはある意味では『此の事は私にとっても嬉しい誤算だった』と言ったところだろう。








――――――








劇場を出てからはロランの実家に向かい、日本の感覚では早めのディナータイムと相成った。
オランダの夕食時間は日本と比べると幾分早く、十八時ごろには夕食時間なのだ――ロランもその時間を見計らって帰って来たのだが、リビングルームには既に準備が万端整っていたので、ロランと夏月は手洗いをうがいをした後に食卓に向かった。
テーブルに並べられたのは、蒸したジャガイモと軽く炙ったライ麦パン、牛の煮込みと数種類のチーズと、オランダの伝統的なメニューだったのだが、夏月は満足しており、特にオランダ産のチーズに関しては『Amazonで輸入しても良いかもな』とか考えていた――そのディナーの席では『学園でのロランの様子』、『二人が交際するようになった切っ掛け』、『ロランと他の婚約者との関係』、『夏月の趣味』、『個展で見た自分の作品を如何思ったか』等々色々な話をし、最後に改めてジョセフとミーネから『ロランツィーネの事を幸せにしてやって欲しい。』と言われた夏月は『勿論です。任せて下さい。』と答えて、ジョセフとミーネを安心させたのだった。


夕食後フリータイムであり、ロランの後にシャワーを浴びて部屋に戻って来た夏月だったのだが――


「夏月、今夜は一杯如何だい?」

「其れは、断る理由が何処にもないな。」


其処にはノンアルコールのカクテル缶とニシンのスモークのオイル漬け缶詰を手にしたロランが居た。
床には映画のDVDも置かれており、夏月はロランの誘いに乗って、映画鑑賞をしながらのノンアルコールの『未成年の晩酌』を心の底から楽しみ、そして映画が終わると共にその晩酌も終了となりベッドに入ると夏月はロランに腕枕をし、直後に二人揃って夢の世界へと旅立ったのだった。
夏月に腕枕をして貰って眠っているロランも、ロランに腕枕をして眠っている夏月も何方も此の上なく平和で幸せそうな笑みを浮かべており――


「うん、うん、かっ君もローちゃんも幸せそうで束さんは大いに満足なのだよ!この映像だけで良い肴になるってモンさ!」


其の様子を盗撮……もといモニタリングしていた束は満足そうにラボで『八神庵』張りの高笑いを上げながら、もう何本目になるか分からない缶ビールを開けると一気に飲み干していた。
其れは其れとして、夏月の嫁ズの親への挨拶旅行四日目も取り敢えず大きな問題は起こらず無事に終わり、夏月とロランは互いに愛情を深めたのだった。












 To Be Continued