鈴の母親に挨拶を済ませた夏月は中国を目一杯楽しんだ後に、鈴と同じベッドで眠りに就いたのだが、夏月は気が付くと太陽が眩しいほどに輝いている真夏の海岸に来ていた――此処は臨海学校でゴスペルに撃墜された際に訪れて居た場所であり、つまりは羅雪のコア人格の世界なのである。
あの時は雪が降り積もる真冬の海だったが、夏月の意識が浮上する直前に真夏の海へと変わり、以降其のままになっていたようだった。
羅雪は、睡眠時など夏月の意識が未覚醒状態である時に限って夏月の意識をコア人格の世界に呼び込む事が出来るようなっていたのだ。
「此処はコア人格の世界か……其処に俺を態々呼んだっていう事は、余程重要な話があるって事で良いんだよな羅雪?」
「あぁ、其の通りだ。何れ秋五にも教えなければならない事だが、先にお前に伝えておこうと思ってな。
実はな、お前と秋五には『年下の姉』と言うべき存在が居るのだ。」
「年下の姉?それってアンタのクローンとか、そんな感じの存在って事か?」
「うむ、まぁその認識で間違ってはいない。
より正確に言うのであれば、織斑計画初の成功例として誕生した私に何かあった時の為のスペア、或は臓器提供用のドナーとして生み出された存在だな。」
「スペア兼ドナー……まぁ、織斑計画ってのは人工的に最強の人間を作ろうとか考えてるイカレタ連中が集まって進めてたモノなんだろうから、成功個体に何か問題が起きた時の為にそう言ったモノを用意してもオカシクねぇか。
パーツのスペアなら兎も角、人体のスペアとかイカレてるにも程があると思うんだが、ソイツが俺と秋五にとって姉なのは兎も角、年下ってのはどう言う事だ?」
「アイツ……マドカが誕生したのは十三年前だが、お前と秋五が生まれたのは十年前でな。
お前達が誕生する前に既にマドカは誕生していたのだ――で、お前と秋五は生まれて直ぐに『成長促進機』に入れられて肉体が六歳まで成長してから外に出されたのだ。
だから肉体的にはお前と秋五の方が大人だが、生まれてからの年月で言えばマドカの方が上だ――故に、マドカは年下の姉と言う訳だ。」
「肉体的には十六歳でも実年齢は十歳とかもう意味分からねぇ。」
其処で羅雪から聞かされたのは、『年下の姉』が居ると言う事だった。
千冬のスペア兼ドナーとして生み出されたマドカは、束の存在によって織斑計画が凍結され破棄される際に記憶操作されて織斑姉弟の一員になる予定だったのだが、千冬のスペア兼ドナーであった事で記憶操作をレジストしてしまい、千冬の人格に蓋をする事で疲弊していた織斑計画のスタッフは同じ事をもう一度やるのは絶対に嫌だとばかりにマドカには記憶に関する操作を一切行わずに改造スタンガンで気絶させて、その辺に放置していたのだ――なので、羅雪もマドカが織斑計画が凍結・破棄された後はどうなったのかは知らないのだが。
「其れで、そのマドカってのは生きてんのか?」
「生きてるぞ?クラス対抗戦の時に乱入して来た奴が居ただろう?サイレント・ゼフィルスを使っていたのがマドカだ。バイザーで顔を隠していたが、私には直ぐに分かったよ。」
「マジか……そうとは知らず随分と暴言吐いちまったなぁ……次に会う事があったら謝っとくか。」
しかし羅雪はクラス対抗戦の際に乱入して来た二人組の内、サイレント・ゼフィルスを使っていたのがマドカである事を看過しており、其れを夏月に伝えた――其れを聞いた夏月はなんとも複雑な顔をしていたのだが、其れは致し方ないだろう。
知らなかったとは言え、姉である存在に対して暴言を吐きまくったのだから。
「まぁ、アレは状況が状況だっただけに仕方ない事だ。
其れよりも、お前の嫁達の家族への挨拶回り、次の目的地は確かタイだったな?……ギャラクシーの実家は確かムエタイ道場を営んでいるんだったな?……夏月よ、此れはバトルは避けられんかもしれんぞ?
道場主ともなれば、娘の交際相手が如何程の実力の持ち主なのかを試そうとして来るかも知れないからな。」
「あ~~……其れは覚悟してっから大丈夫だ。」
羅雪は状況的に仕方ないと言った後で、話題を『嫁ズの親への挨拶回り』へと変えた。
乱と鈴の親への挨拶を済ませた夏月の次の目的はヴィシュヌの母国であるタイなのだが、ヴィシュヌの母親は『女性ムエタイファイター』として名を馳せた人物で、現役引退後はムエタイ道場を開いて未来のムエタイチャンピオンを育てており、それだけに『生半可な力しかない人間に一人娘であるヴィシュヌの事を任せる事は出来ない』と考えていたりするので、挨拶に来た夏月の実力を見極めようとしてくる可能性は極めて高いのだ。
加えてそのムエタイ道場にて門下生の男性達にとってヴィシュヌはアイドル的存在なので、その婚約者となった夏月に対して勝負を挑んでくる可能性も充分にあると言えるのである。
だが、そうなったとしても夏月は己の実力を示すだけだと、そう考えていた――更識の仕事で武器を持った悪党を幾度となく相手にして来た夏月には、スポーツの延長の格闘技では負ける気はマッタク無いのである。
其れから夏月と羅雪は他愛ない会話を交わした後に、夏月の意識が浮上してコア人格の世界から離れて行き、そして夏月は目を覚ました。
目を覚ました夏月は早朝トレーニングを終えた後で『凰飯店』の仕込みを手伝い、鈴と共に中国のポピュラーな朝食である『朝粥セット』を食べてから中国を発ち、次の目的地であるタイへと向かって行ったのだった。
夏の月が進む世界 Episode48
『嫁ズの家族への挨拶Round3~タイランド~』
上海国際空港からバンコク国際空港へと到着したのは丁度昼時だった。
入国審査を無事に済ませた夏月だったが、夏月の次に入国審査を受けた男性は、持ち物の中から『謎の白い粉』が出て来た事で強制連行されていた――其の『白い粉』が麻薬だった場合、男性が刑務所送りになるのは間違いないだろう。
タイでは麻薬は所持しているだけでも重罪であり、最低十年は刑務所暮らしになるのだから。タイにおける麻薬の密輸、密売は他国よりもリスクが大きいのだ。
其れは其れとして、空港のロビーではヴィシュヌが夏月の事を待っていたのだが、ヴィシュヌを見た夏月の思考は一瞬停止してしまった。
ヴィシュヌはタイの伝統衣装で出迎えてくれたのだが、右肩を露出した衣装はヴィシュヌの健康的な身体の魅力を十二分に引き出しており、更に身体の線をバッチリ出しながらもタイツとは違って余裕がある事で、ヴィシュヌの豊満なバストも強調されていたのだ。
「中々のお手前で。」
「其れは使い方が正しいのか疑問ですが、気に入ってくれたのであれば良かったです。」
何とか再起動した夏月が柏手を打って一礼したのも仕方ないだろう――其れほどにタイの伝統衣装を纏ったヴィシュヌは魅力的で破壊力がエクゾディアだったのだ。
ともあれ、無事に合流した夏月とヴィシュヌは実家に行く前に昼時と言う事もあったのでランチタイムとなった。
空港内にも幾つか食事処があったのだが、此処は夏月が『折角だからヴィシュヌのお勧めの店とかあったら其処に行ってみたいな?』と言った事で空港内にある食事処ではなく、ヴィシュヌのお勧めの店に行く事になった。
そうしてヴィシュヌが夏月を連れて来たのは空港から少し離れた場所にある『カレー専門店』だった。
まさかのカレー専門店に夏月も驚いたのだが、ヴィシュヌのお勧めならばと期待もしていた。
「ベジタブルライスを二つお願いします。」
メニューの方もヴィシュヌのお勧めと決めていたので、席に着くとヴィシュヌは直ぐに注文を出したのだった。
其れから十分ほどでヴィシュヌがオーダーした『ベジタブルライス』が運ばれて来た――メニューの名前から夏月は『野菜の炒飯か?』と予想していたのだが、その予想は大当たりで、野菜の炒飯が出て来た。
だが、其れだけでなくその周囲には小鉢に入った『マトン』、『エビ』、『チキン』、『豆』、『挽肉』の五種類のタイカレーが添えられていた。
そしてヴィシュヌは其の五種類のカレーを野菜の炒飯の上に掛けると、其れを混ぜ合わせてから口に運んだのだ――夏月も其れに倣って野菜炒飯と五種のタイカレーを混ぜ合わせてから口に運んだのだが、その瞬間に旨さの電撃が全身を駆け巡った。
ココナッツミルクやナンプラーで独特のエスニックな風味が特徴のタイカレーだが、此の五種のタイカレーは夫々が具材の持ち味を生かしつつ、カレーのスパイシーさを失わずに、ココナツミルクとナンプラーの風味も持たせていたのだ。
加えてマトンとチキンは『レッド』、豆は『イエロー』、エビと挽肉は『グリーン』と別れていたのも味の深みを増している要因だと言えるだろう――タイカレーはレッド、イエロー、グリーンで夫々異なる味が楽しめるのもまた特徴なのだから。
「お勧めがカレーだったのは意外だったけど、この味なら納得だぜ。馴染み深いカレーだからこそ、その奥深さってモノを知る事が出来たぜ。」
「満足していただけのならば私としても嬉しい限りですね♪」
最高のランチタイムを過ごした夏月とヴィシュヌは、タイ観光をしながらヴィシュヌの実家であるムエタイ道場へと向かっていた。
その道中で目にしたモノは、夏月にとっては目新しいモノも少なくなかった――特に夏月の目を引いたのは、『ゾウタクシー』だった。地球温暖化を抑制する為に掲げられた『CO2削減』に貢献する為、タイでは自動車ではなくゾウを使った究極のエコタクシーが誕生していたのだ。
ゾウと言えば巨体故に動きが遅いイメージがあるが、タイなどに生息しているアジアゾウはアフリカゾウと比べれば小柄であり、本気で走った際には最高時速60kmとも言われているので、エコタクシーの動力としては実に優秀なのである――とは言っても、ヴィシュヌの実家までは歩いて行ける距離なのでタクシーを使う事は無かったのだが。
そう言う意味では夏月とヴィシュヌはちょっとしたデートをしたと言えるだろう。
「此処って寺か?……何で寺の庭に虎が居るんだよ?」
「ふふ、日本のお寺ではまず有り得ない光景ですが、タイの仏教寺院では割と見られる光景なんですよ此れ。
タイではゾウが神聖な動物とされているのは知っていると思いますが、トラもまた神聖な存在とされているんです――特にタイの仏教ではトラは釈迦の使いとされているので、事故や密猟で親を失った子供のトラを保護して育てている寺院も少なくないのですよ。」
「成程ねぇ……だけどよ、虎の餌ってどうなってんだ?
仏教って確か殺生を禁じてるから肉食NGだったよな?そうなると虎の餌の確保って難しいんじゃねぇの?前にテレビで動物園の裏側を紹介する番組で言ってたけど、虎って一日にキロ単位の肉を食うらしいからな……まさか、ネコ用のキャットフード食わせてる訳でもないだろ?」
「僧侶は肉食厳禁ですが、トラは仏教徒でなく、また釈迦の使いと言う特別な存在なので肉食も大丈夫なのではないでしょうか?と言うか、トラに肉食を禁じるとなると其れはもう『お前餓死しろ』と言っているようなモノですから。
其れ以前に私は仏教の肉食厳禁には少しばかり否定的なんです――殺生を禁じているから肉食はダメとの事ですが、菜食であっても『命』を頂いている事に変わりは無いと思うんですよ。
動物はダメで植物はOKと言うのは納得出来ません。世のヴィーガンの方々を否定する気はありませんが。」
「そう言う意味では坊さんでありながら『生きる為には必要な事なのです』って言ってバリバリ肉食してたって言われてる親鸞和尚は仏教の真理に触れて真の悟りを開いていたのかもな。」
道中では虎が居る寺院に夏月が驚き、ヴィシュヌが何故仏教寺院に虎が居るのかを説明し、雑談の中でタイの首都として知られている『バンコク』という名称は外国人が使う呼び方であり、タイ人は首都を『クルンテープ・マハーナコーン』或は『クルンテープ』と呼ぶのだとヴィシュヌが夏月に教えていた。
そして其の二つの呼び方も所謂略称であり、タイの首都の正式名称は『クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット』だと言う事も教えてくれたのだった。
「長い上に何処をどう略してもバンコクにならねぇだろ此れ!つか、長くて良く分からんかったらもう一度言ってくれるかヴィシュヌ。」
「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシットです。」
「計百四十七文字を一字一句間違わずに言い切った事に驚きだぜ。」
タイの首都の正式名称が恐ろしく長い事に驚いた夏月だったが、そんな感じの雑談を続けている内にヴィシュヌの実家に到着していた。
ヴィシュヌの実家は平屋の一階建ての一軒家なのだが、敷地面積は広く、庭には母屋よりも大きな建物が存在してた――その建物こそがヴィシュヌの母である『ガーネット・シズ・ギャラクシー』が道場主兼経営者兼師範を務めているムエタイ道場なのだ。
ガーネットは日中は師範として門下生の指導を行っているので道場に居る事が多く、今日もヴィシュヌは外出前にガーネットが道場で門下生の指導を行って居たところに外出する旨を伝えていたので、母屋ではなく道場の方へと夏月を連れて行った。
「デッカイ道場だなぁ?可成り繁盛してるんじゃないかこのムエタイ道場って?」
「自慢ではありませんが、母は現役時代には『人間凶器』の異名を持っていた女子ムエタイ界では敵無しの存在だったので、そんな母が経営している道場となれば自然と入門者は増えると言うモノです。
ムエタイは現役で百試合をする選手の方が珍しいと言うのに、母は現役時代に百戦以上を行った上に百戦以上のKO勝ちを収め、同階級では相手が居なくなって一つ上の階級に挑戦してチャンピオンにもなった、ある意味で伝説的なバケモノですので。」
「現役で百戦以上して百戦以上KO勝ちして同階級で敵が居なくなって上の階級に挑戦って、ムエタイ界のアーチ・ムーアかお前の母上は。」
ヴィシュヌの母であるガーネットは中々にトンデモナイ女子ムエタイファイターであったらしく、女子ムエタイ界ではまだ生きているにも拘らず其の存在は半ば伝説と化しており、彼女の道場には入門者が尽きないと言う嬉しい悲鳴状態となっていたのだ。
そしてガーネットは選手として最高だっただけでなく指導者としても最高だったらしく、この道場からは何人ものムエタイチャンピオンを輩出しており、其れがまた門下生の増加に繋がっていたのだ。
「この先に母が居る訳ですが……夏月、此処は手加減しないで思い切りやっちゃって下さい。道場破り上等な位の方が母の好みですので。」
「嫁公認なら問題ないか……なら遠慮なく!……たのもー!」
その道場の扉を夏月は『黒のカリスマ』も絶賛するであろうケンカキック……ではなく、思い切り音が出るほどの勢いで平手で叩き開けた。
『婚約相手の親に挨拶に来た』と言う事を考えれば、普通なら此の登場は大問題なのだが、今回はヴィシュヌに『思い切りやっちゃって下さい』と言われており、其れはつまり『嫁公認』なのでギリギリOKなのだ――加えてガーネットが『道場破り上等な位の方が好み』と言うのも関係しているだろう。
とは言え、突如扉が蹴破られたかの如き勢いで開かれた事で門下生達は『道場破りか!』と身構えてしまったのは致し方ないだろう。
「お母さん、只今戻りました。」
「お帰りヴィシュヌ。……そんで其方の方が……」
「初めまして、一夜夏月です。ヴィシュヌの婚約者で結婚を前提にお付き合いさせて頂いています。」
勢いよく扉が開けられた事に練習中の門下生達は驚いていたが、そんな事には構わずにヴィシュヌは指導をしていたガーネットに戻って来た事を伝えると、夏月は自己紹介をした後に『ヴィシュヌの婚約者』だと言う事を告げた。
其れを聞いたガーネットは特に驚いた様子もなかった――既にタイ政府が『ヴィシュヌ・イサ・ギャラクシーと一夜夏月は婚約状態にある』と発表していたので、ある意味では『今更』と言うところがあったのかも知れない……其れでも己の一人娘の伴侶となる男性がどんな人物であるのかは矢張り気にはなっていた。
帰国したヴィシュヌから夏月の話は聞いていたが、其処は『乙女フィルター』が掛かっているとも考え、ガーネットは実際に夏月と会って其の目で見るまで、ヴィシュヌとの婚約状態を認める気は無かったのだが、いざ目の前に現れた夏月には思わず息を呑んだ。
道場破り然として登場した強心臓も然る事ながら、『ヴィシュヌの婚約者で結婚を前提に付き合っている』と言った瞬間に向けられた門下生からの羨望と嫉妬と殺気が混じった視線を向けられても夏月はマッタクもって平気の平左、ともすればそんな視線なんぞマッタクもって感じてないと言った具合だったのだ――其れを見たガーネットは、其の度胸に感服すると同時に夏月にはトンでもなく凄まじい力が秘められている、そう直感したのである。
夏月と相対したその瞬間から彼に向けて本気の闘気をぶつけていたと言うのにマッタク怯んだ様子が無かった事も理由としては大きいだろう。
「敵意の籠った視線を一気に向けられても全然平然としているとは、大した胆力だねぇ?……それどころかアタシを前にしても怯まないとは大したモンだ。
自分で言うのもなんだけど、私に闘気をぶつけられたら現役のムエタイファイターでも怯む事が多いってのに……ヴィシュヌから話は聞いていたけど、実際に会ってみると、成程此の子が惚れる訳だよ。」
「え~と、其れはありがとうございます?」
「ヴィシュヌの相手として相応しい実力があるかどうか、其れを試す心算だったけど如何やら其れは必要なさそうだ――君にならば大事な娘を任せても大丈夫だと確信したモノ。
夏月君、娘の事を宜しく頼むわよ?」
「はい、勿論です!」
「お母さん……ありがとうございます……!!」
「「「「「ちょっと待ったぁ!!」」」」」
故にガーネットは夏月をヴィシュヌの婚約相手として認めたのだが、そうは簡単に行かないのが門下生達だ。
門下生にとってヴィシュヌはアイドル的存在であるので、其れを奪っていく夏月の事を許す事は出来ないのだ――ヴィシュヌが夏月と婚約状態にあるのは国が決めた事でありヴィシュヌ自身も夏月に惚れているのだから其れに口を出すのはお門違いであるとは理解していても、理解しているからと言って納得しているかと言われたら其れは断じて『否』であるのだ。
納得するには自分達の手で夏月がヴィシュヌに相応しいかを見極める以外は方法がないので、門下生達はガーネットに直訴して夏月とのエキシビションマッチを行うところまで漕ぎ付けたのだった。
「羅雪の予想とは違った形だが、バトルにはなる訳か……まぁ、こっちの方が四の五の言うより分かり易いか。
本来ならガーネットさんに認めて貰った時点でミッションクリアなんだが、それじゃあ納得出来ない連中の事も納得させなきゃ意味はないだろうからな……バトった末に認められるとか、何時の時代の青春漫画だよって気もするけどよ。」
「私と互角以上に戦えた夏月ならば勝てますよ。
この道場の門下生で私に勝てた人は一人も居ませんから……頑張ってくださいね夏月。」
「おうよ!」
スニーカーとソックスを脱いで裸足になった夏月はオープンフィンガーグローブを装着してスパーリング用のリングに上がり、門下生達の方は指折りの実力者五人が選ばれ、一人目がリングに上がる。
試合のルールは、『立ち技の打撃オンリー。組み技はスタンド状態での首相撲のみOK。ダウンした相手への攻撃は禁止。』となり、試合は一ラウンド三分で五ラウンド制、ラウンド間のインターバルは一分と設定され、決着はKOもしくはガーネットが『此れ以上の試合続行は不可能』と判断して試合を止めてのTKOで判定での決着は無し(フルラウンド戦って決着が付かなかった場合は引き分け)となって、試合終了後には五分のインターバルが設けられる事となった。
そうして始まった第一試合、先に動いたのは夏月だった。
鋭い踏み込みから強烈な右ストレートを放つと、相手は其れをギリギリでガードしたが、流れるような動きで左のショートアッパーを繰り出してガードを強引に抉じ開けると、ガラ空きになった顔面にアックスボンバーを叩き込む。
ムエタイでは肘と膝での打撃も認められているので、肘を相手の顔面に叩き込むアックスボンバーは反則打撃にはならないのだ――そして、そのアックスボンバーは見事に相手の顎を打ち抜いた事で一人目はKOされて勝負あり。
本来ならば此処で五分間のインターバルとなるのだが、夏月は『此れ位ならインターバルは必要ない』と言って、即第二試合に。
第二試合は相手の方が先に動いて凄まじいラッシュを仕掛けて来たのだが、夏月は其れをダッキングやスウェーバックを駆使して避けて避けて避けまくる。其れこそ回避の値がマックス値の255で、運の値が150を超えたファイナルファンタジーのキャラの如く、『回避可能な攻撃は必ず回避する』と言った感じだ。
だが、夏月は相手の攻撃を回避するだけで攻撃は行っていなかった。
「お前、なんで攻撃してこない!」
「攻撃しなくても、このまま回避を続けてれば何れアンタは自滅するからだ。」
「!!」
回避をするだけで攻撃してこない夏月に二人目の相手は、何故攻撃してこないのかと言ったのだが、返って来た夏月の答えには声を詰まらせた――二人目の相手は試合開始から猛攻を仕掛けてペースを握って、その勢いのままに試合を決めるタイプだったのだが、逆にその猛攻に対処されてしまうと途中でガス欠を起こして終盤に逆転負けを喰らう事が多かったのだ。
夏月は更識の人間として裏の仕事にも携わって来たので、相手がどんな戦い方を得意としているのかを見極める目も養われていたのだ――そして、夏月の読みは見事に的中して、試合開始から第四ラウンドに入ったところで相手がスタミナ切れを起こして攻め手が単調で荒くなり、放たれた大振りのストレートに対して其れを円運動で回避すると後回し蹴りを側頭部に叩き込んで一撃KOをして見せた。
続く三人目は夏月の方から仕掛け、一人目の時と同じく鋭い踏み込みからの右ストレートを放ち、其れをガードした相手に対して今度は左の肘を振り下ろしてガードを下げると、下がった肘を踏み台にしてシャイニングウィザードを一閃!
『稀代の天才プロレスリングマスター』が編み出したシャイニングウィザードは、開祖が使えば『相手の膝を踏み台にした技ですらなくなる』と言われているのだが、夏月も基本の型には囚われないシャイニングウィザードを見事に決めて見せたのだ。
副将戦となる四人目とは試合開始と同時に間合いを詰めて打ち合う展開になったのだが、打撃に関してはムエタイしか知らない門下生よりもあらゆる格闘技を修得している夏月に分があり、夏月はムエタイで許されている打撃を駆使して打ち合いを制し、最後は二連続のジャンピングアッパーカット、所謂『昇龍裂破』をブチかましてKO!――四連戦しても全く息が乱れていない夏月には門下生だけでなくガーネットも驚いていた。
「久し振りに師に会いに来たが、其処でまさかこれ程の奴と出会うとはな……オイ、代われ。五人目はこの俺だ。」
「は、はいぃぃ、帝王様!!」
最後の五人目なのだが、此処で五人目の相手が急遽変更になった。
五人目の相手は道場の門下生最強の存在だったのだが、第四試合が終わる直前に嘗てこの道場の門下生だったムエタイファイターが現れ、第四試合の結果を見て自分が五人目に名乗りを上げたのだった。
2m近い身長とスキンヘッドが、大人気格闘ゲーム『ストリートファイター』シリーズの『サガット』を彷彿とさせる。
199cm、115㎏と言うムエタイファイターとしては破格の体格故に、ムエタイ界では最重量ランクでも相手が存在せず、結局はプロになる道を諦め、ストリートファイターとして野試合を繰り返して無敗を誇る無冠の帝王なのだ。
其の身から発せられる『強者のオーラ』は凄まじく、此れまでとは明らかに次元の異なる相手に夏月の表情も引き締まる。
「最後の最後で此れはまた凄いのが出て来てくれたなぁ……コイツは間違いなく強敵だ。」
「彼は『帝王』との異名を持つほどのムエタイファイターであり無敗のストリートファイターです……此れまでの相手とは次元が違いますので、気を付けて下さい。」
「帝王か……そんじゃ一丁やりますか!!手合わせ頼むぜ帝王様!」
「来い小僧!お前の力を見せてみろ!」
そして運命の最終試合。
ゴングと同時に互いに飛び出して激しい打ち合いとなったのだが、その途中で帝王は首相撲に夏月を取ると、ボディに強烈な膝蹴りを何発も喰らわせた上でトドメにハイキックを放つ!
普通ならば此れでKOされていただろうが夏月は倒れず……
「此れが帝王が放つムエタイの真髄……勉強になりました。折角だから忘れる前に復習させて貰うぜ!」
今度は夏月が首相撲に持ち込んだのだが、その体格差から夏月は帝王に振り回される事になった。
其れを見た門下生達は『お前の蹴りなんぞ帝王様には通じねぇよ!』と煽っていたのだが、そん中でも振り回されながらも夏月の蹴りは少しずつ様になって行き、遂に帝王に決定的な一撃を叩き込んだのだった。
「て、帝王様に入れやがった!!」
「へへ、如何だ!本番は此処からだぜ!!」
此処からが仕切り直しだとばかりに攻め込んで来た夏月に対して、帝王はカウンターの飛び膝蹴り『カイザー・ニー・キャノン』を放つ――此れも、真面に喰らったら其の時点でKO間違いなしなのだが夏月は倒れず……
「コイツは効くぜ……せいやぁ!!」
逆に首相撲からカイザー・ニー・キャノン擬きを叩き込む。
「あ、アイツ、帝王様のカイザー・ニー・キャノンを喰らっても倒れない……いや、倒れないどころかカイザー・ニー・キャノン擬きを繰り出すとは……!」
「し、信じられねぇ……こんなの初めて見た!」
その光景に門下生達は戦慄し、ヴィシュヌとガーネットは満足そうだった。
プロのムエタイ界では相手が存在しない事で、仕方なくプロを諦めて野試合を行っているとは言え、帝王の実力はムエタイをやって居るモノのみならずタイ全土に知れ渡っているので、其の帝王と互角に渡り合っている夏月の実力が如何程であるのかは誰の目にも明らかだった。
そうして夏月と帝王の戦いはラウンド終了のゴングが鳴らされる事なく続けられ、五ラウンド分の十五分を戦ったところでガーネットがゴングを鳴らして試合終了を告げ、最終戦は時間切れ引き分けとなったのだが、帝王は此の戦いで夏月の実力を認め、『お前なら、俺のカイザー・ニー・キャノンを受け継ぐに相応しい相手だ』と言って、夏月に自身が厳しい修行の末に編み出した最強の膝蹴りを継承し、其れを見た門下生達は夏月がヴィシュヌの相手として相応しいと認めていた――帝王が力を認めた事で理解と納得が合致したのだろう。
「カイザー・ニー・キャノンは最強の膝蹴りだが、俺一人が覚えているのでは何れ埋もれてしまう……この技を受け継いでくれる奴を探していたが、此処で其れに相応しい奴に出会う事が出来るとは思っていなかった。
一夜夏月、お前が覚えた膝蹴りは世界最強の膝蹴りだ!其れを忘れるな!」
「あぁ、忘れねぇよ帝王様。アンタとの戦いと、アンタのカイザー・ニー・キャノンは絶対にな!」
互いに全力を出して戦い抜いた末の引き分けだったが、夏月と帝王はリング中央でガッチリと握手を交わし互いに健闘を称え合い、その瞬間に道場内からは歓声と拍手が沸き起こった――此のムエタイ道場の門下生達は血気盛んだが単純で、憎いと思っていた相手であってもその強さを認めれば其れは尊敬に変わるのだ。
そして己の強さを示した事で夏月は彼等に認められ、其のまま一気に親しくなったのだった――拳を交えて親しくなる、少しばかり古臭いが、男同士が互いを認めて親しくなるには此れ以上の方法は存在しないのかも知れない。
こうしてガーネットだけでなく道場の門下生達にもヴィシュヌの婚約者である事を認めさせた夏月は、今度は其処から道場で始まった歓迎の宴にヴィシュヌと共に参加する事になった。
午後五時でトレーニングが終わった後で、ガーネットが門下生達に『宴の準備』を言い渡し、僅か九十分で宴の準備が整っていた――宴は立食形式だが、ベンチプレス台に板を渡してテーブルクロスを掛けた簡易テーブルには、『ガパオライス』、『タイ風焼きビーフン』、『トム・ヤム・クン』、『タイ風生春巻き』、『タイカレー』等のタイグルメが並べられていた。
「それじゃあ、我が娘ヴィシュヌの婚約を祝って、カンパーイ!」
「「「「「「「「「「乾杯!」」」」」」」」」」
ガーネットの音頭で乾杯が行われ、其処からは実に楽しい宴が行われた――用意された料理のレベルが高かったのは言うまでもないが、門下生達が夏月とヴィシュヌの馴れ初めなんかを聞いてたりして、其れに夏月とヴィシュヌは嘘偽りなく答え、宴の後半で開催されたカラオケ大会では夏月とヴィシュヌがデュエットで『奇跡の地球』を、桑田パートを夏月が、桜井パートをヴィシュヌが熱唱してぶっちぎりの最高点を叩き出して優勝を捥ぎ取ったのだった。
――――――
宴が終わった後、夏月とヴィシュヌはシャワーで汗を流し、そして今は母屋にあるヴィシュヌの部屋で一つのベッドに入っていた――当然のように夏月はヴィシュヌに腕枕をしており、ヴィシュヌも夏月の腕枕を心地良く感じていた。
「お疲れ様でした夏月……お母さんが貴方の実力を量るかも知れないとは思っていたのですが、そうはならずに逆に門下生が爆発して、更に帝王が出て来るとはマッタクもって思いませんでしたから。」
「俺もまさかこうなるとは思ってなかったけど、其れでも良い経験だったぜ――ムエタイの本場のタイで帝王って言われてる人から、最強の必殺技を継承する事も出来た訳だからな。
そう言う意味では、今回の挨拶回りは大成功以上の結果だったぜ。」
「そうですか……そうならば良かったです。」
其のまま夏月とヴィシュヌは触れるだけのキスを交わすと、其のまま夢の世界へと旅立って行った――挨拶回り旅行の第三ラウンドも夏月は見事に勝利を収めたのであった。
そして、ヴィシュヌの部屋を訪れたガーネットは夏月に腕枕をされた状態で幸せそうに眠っているヴィシュヌを見て、改めて『夏月はヴィシュヌの相手として此の上なく相応しい存在である』と確信していた――こうして、タイの夜は更けて行ったのだった。
To Be Continued 
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