羽田空港からタクシーに乗って辿り着いた先は東京ドームとその周辺施設一個分に相当する屋敷であり、そのあまりの凄さに夏月は圧倒されていた……城門のような巨大な正門だけでも可成りのモノなのだが、門も屋敷を囲っている壁も全て漆塗りが施されている事でより重厚感が増しているのである。
その荘厳な屋敷に圧倒されている夏月とは別に、スコールは正門のインターホンを押して人が来た事を知らせる。
程なく、インターホンのスピーカーから女性の声が。恐らくこの屋敷で働いている人間だろう。
『お待たせしました。何の御用でしょう?』
「更識楯無様はいらっしゃるかしら?」
『はい。楯無様はいらっしゃいますが、何かお約束でも?』
「いえ、悪いけれどアポなしよ……けれど大事な用事があるの。楯無様に、『土砂降りの雨が降った』と伝えて頂ける?其れで楯無様には通じるから。」
『土砂降りの雨……畏まりました、少々お待ちください。』
その女性に対し、スコールは暗号めいた何かを伝えると、女性も其れが何であるのか気付いたらしく、一度スピーカーが切れる。『楯無』と呼ばれた人物に、『土砂降りの雨が降った』と伝えに行ったのだろう。
「義母さん、この屋敷の人と知り合いなのか?」
「えぇ、亡国機業に行く前は、この屋敷で……いえ、正確には『更識』の一員として働いていたの。楯無様は更識家の当主様で、嘗ての私の上司と言う事になるわ。
確か、貴方と同じ位の歳の娘さんが二人居たと記憶しているわ。」
「いや、こんなデカい家で働いてたってのに、何だって亡国機業なんぞに行ったんだよお前……ぶっちゃけ、絶対こっちで働いてた方が給料その他諸々全部良かったんじゃねぇのか?」
「そうでもないわよオータム。寧ろ仕事の危険度で言えば此方の方が上だったかも知れないわ……自分の身体の色んな所が機械化してる事に何度感謝したか、其れすら分からないわ。」
「……此処、ヤクザの家とかじゃないよね?」
「そう言った反社会勢力ではないから安心してちょうだい夏月。楯無様は人間的にもとても素晴らしい方よ……そうでなければ、貴方を此処に連れて来ないわ。」
嘗てスコールはこの屋敷――『更識』で働いていたらしく、『楯無』とは更識の当主で嘗てのスコールの上司だと言う。……亡国機業以上に危険な仕事をしているとの事だが、其れは此れから説明されるのだろう。
夏月は一瞬『ヤクザか?』と疑ったが、如何やらそうではない事にひそかにホッとすると同時に、『同じ位の歳の二人の娘』と言うのが少し気になっていた。此れから此処で暮らす事になると言うのだから、其の子達とも一緒の生活をする事になるのだから気になるのは当然だ。
暫し雑談していると、インターホンのスピーカーから先程の女性の声が発せられ、『どうぞお入りください。楯無様の元にご案内いたします』と伝えて来たので、夏月達は正門を潜って更識の屋敷へと入って行ったのだった。
夏の月が進む世界 Episode2
『夏の月の新たな出会い~刀と簪~』
屋敷内に入った夏月達は、屋敷の使用人に案内されて大広間に案内されていた。
その大広間は三十畳ほどの和室で、床の間には高価そうな屏風が飾られ、襖にも山水画や龍虎図が描かれており華やかさはあるが、しかし屏風にも襖絵にも金箔のようなモノは用いずに全て水墨画で描かれており、荘厳でありながらワビサビを感じさせる見事な造りとなっていた。
そんな大広間の上座には、着物を着て、特徴的な蒼い髪をオールバックにした男性が座布団に座っていた。彼が、更識の当主である楯無なのだろう。
「『土砂降りの雨が降った』……君が更識を去る際に、次に私に会いに来た事を示すこの暗号を聞く時が来るとは思っていなかったよ時雨。いや、今は亡国機業のモノクロームアバターの隊長・スコールと言うべきかな?」
「時雨で構いませんわ楯無様……御無沙汰しています。」
その楯無に対し、スコールは正座をすると畳に指を付いて頭を下げる。更識から去ったとは言え、嘗ての上司に対しての礼儀は尽くすと言う事だろう。
そんなスコールに対し、楯無は『一体何の用だ?』と問うと、スコールは夏月を呼んで自分の横に座らせ、『暫くこの子を預かって欲しいと思い此処を訪れました。彼は一夜夏月……本当の名は織斑一夏と言います。』と紹介する。
「織斑一夏?其の子は確かドイツで死亡した筈ではなかったかな?
更識でも、日本政府に『織斑一夏誘拐』の犯行声明が入ったのと同時にドイツに駐在しているエージェントに彼を探させたが、漸く彼が連れて行かれた場所を特定して向かった時には、誘拐犯と思しき者の遺体と血痕だけがあり、織斑一夏君を発見する事は出来なかったが……成程、我々よりも早く君達が動いて彼を保護したと言うのであれば納得だ。
亡国機業であれば、更識よりも早く情報を得ていたとしても不思議ではないからね。……そうか、君が織斑一夏君か。」
「今の俺は、一夜夏月です。織斑一夏は、もう死んだんです。」
「うむ……成程、そう言う事か。」
夏月の一言で楯無は何があったのかを察したのだろう。其れ以上は夏月に関しては深く追及はしなかった……自分の娘と変わらない歳の少年が、本名とは別の名を名乗り、嘗ての己を『死んだ』と断言するには、相当な事があったのだと感じたのだろう。
「其れで、何故彼を私に預けるのかな時雨?」
「一つは、私とオータムは亡国機業の任務で世界中を飛び回っているので彼を一つの場所に置いておく事が出来ない事ですわ……私達と一緒に世界を飛び回っていては、本来受けるべき教育を受ける事が出来ませんもの。
ですが、楯無様に預ければ日本に定住出来ますし、然るべき教育を受ける事も出来ますので。
それともう一つは彼を鍛えて頂きたいのです。
夏月は周囲から双子の元弟と比べられて居た様なのですが、彼自身の能力はとても高く、鍛えれば其れこそ織斑千冬すら凌駕する存在になるのではないかと私は考えていますわ。」
其処まで言うとスコールは立ち上がって楯無に近付き、
「何よりも彼は、恐らく『織斑』の『イリーガル』……其れだけで、楯無様には分かるでしょう?」
楯無にそう耳打ちした。
夏月とオータムはそんなスコールの行動を少し疑問に思ったが、スコールは嘗て更識の人間だったと言う事もあり、自分達には知られたくないスコールと楯無の間だけの何かがあるのだろうと考えて敢えて何を言ったのかを問う事はしなかった。
「成程ね……あい分かった。夏月君は更識で預かるとしよう。そして、君の望み通りに彼を鍛えるとしようじゃないか……将来有望な少年を鍛えると言うのも実に楽しみだし、彼の存在は刀奈と簪にとっても良いモノになりそうだからね。
彼の事は大船に乗った心算で安心して任せてくれ。そう、タイタニックに乗った心算で。」
「いや、其れ速攻で沈没するんじゃないっすかね?」
「氷山に激突する前から、燃料庫で火災が発生してたらしいから、氷山にぶつからずともタイタニックは沈む運命にあったってのを何処かで聞いた事があるぜ?沈没確定の豪華客船とかマジ笑えねぇっての。」
「うむ、見事な突っ込みだな。」
スコールの話を聞いた楯無は、夏月を預かる事を即了承した。その際に、楯無の小粋な冗談に夏月とオータムが絶妙な突っ込みを入れた事も楯無には好印象を与えた様だ。
その後、夏月が『時に更識ってどんな組織なんですか?』と質問し、其れに対して楯無は『更識とは日本の暗部であり、分かり易く言えば日本のカウンターテロ組織であると同時に、天皇陛下直属の部隊だ』と説明した。
同時に『楯無』とは代々当主が継ぐ名であり、現在の楯無は十六代目だと言う。
更識は天皇直属の部隊として、武士が台頭して来た平安時代中期に生まれた家で、歴史の裏で日本の権力を操って来たのだと言う……源平合戦に応仁の乱、本能寺の変、関ケ原の合戦、大阪の夏と冬の陣、明治維新、日本の大きな転換期の裏には更識の力が働いていたのである。唯一、第二次世界大戦……正確には日中・太平洋戦争だけは、更識が関わっていない、日本政府の暴走の末に起きた事なのだが。
詰まるところ、更識と言うのは日本の象徴である天皇の直属であり、場合によっては日本政府にも絶大な影響を持っている家と言う事である……首相が他国と比べて短い間隔で交代しているのも、更識が裏で動いた結果だ。そんな状況で、長期政権を築いた小泉内閣と第二次阿部内閣は更識も認める成果を出したと言う事なのだろうが。
ともあれ、夏月は更識に預けられる事が決まり、正門で夏月はスコールとオータムと別れる事に。
「此処からは離れ離れか……ちょっと寂しいかも。」
「学校行事があったらすぐに知らせてね?必ず参加するようにするから。
……私達の準備が出来たら、必ず貴方を迎えに行くから、其の時までに信頼出来る仲間を出来るだけ作っておきなさい。其れが、貴方の為にもなる事だから。」
「信頼出来る仲間……うん、分かったよ義母さん。秋姉、義母さんの事を頼んだぜ?」
「だ~~れにモノ言ってんだコラ?
オレは亡国機業でもトップクラスの実力を持ってるオータム様だぜ?テメェに言われるまでもなく、スコールの事は絶対に守ってやんよ!テメェこそ次に会った時には今よりももっと良い男になってろよ?
其れこそ、オレが同性愛者じゃなかったら惚れてたレベルによ!」
「いや、何でそうなるんだよ……でも、上等だ。やってやるぜ!!」
別れに涙は不要。
夏月とオータムが若干謎の遣り取りをしていたが、其れもまたある意味では日常茶飯の事だったのでスコールも止める事はせず、楯無も微笑ましく其れを見守っていた。それ程に、夏月とオータムの遣り取りは、『歳の離れた姉弟のじゃれ合い』と映ったのだろう。
「楯無さん……俺も更識の仕事に係わる事って出来ないですかね?」
スコール達と別れた後で、夏月は楯無に『俺も更識の仕事に係わらせて貰えないですか?』との爆弾を投下した――更識がどんな組織であるかを知り、亡国機業に身を置くスコールが『準備が出来たら必ず迎えに行く』と言った事で、自分も将来的には『裏』の世界と係わる事になるのは間違い無いと考えて、申し出たのだ。決して伊達や酔狂ではなく、夏月は真剣に考えた上で楯無に聞いたのである。
「出来なくはない。だが、更識の仕事に係わるとなれば相当な覚悟が必要になるし、場合によっては『死』を覚悟して貰う事もある……君にその覚悟があるのかな夏月君?」
「織斑一夏を殺して一夜夏月となった其の時から、俺はこの先の人生にどんな事があっても立ち止まらずに進む覚悟を決めました……其れに、俺は秋姉が助けてくれなかったら死んでたし、死ぬ覚悟は其の時に決めちまいましたから。もう、怖いモノは何処にも無いんです。」
「……人を殺す、その覚悟も必要になる仕事だが?」
「自分が死ぬ事を覚悟する以上の事って、絶体絶命の状況でも生き抜く覚悟を決める事ですよね?其れに比べたら人を殺す覚悟は決められますよ……それが、絶対に仕留めなければならない相手ならきっと。」
「そうか……君の覚悟は良く分かった。ならば、君にもゆくゆくは更識の裏の仕事を手伝って貰うとしよう。あぁ、だがあくまでも君にやって貰うのは、要人の護衛やターゲットの確保だがね。其れから先の汚れ役は私達大人の仕事だからね。その為の技術と知識も教えよう。但し、普段はちゃんと勉学に勤しむ事が条件だ。
私の娘達が通う中学校に君を編入する準備を整えておくよ……そう言えば、私の娘達を君に紹介しておくべきだね。」
夏月の言った事に、楯無は驚くも、夏月の覚悟を聞いて其れを是とした……更識としても優秀なエージェントが増えると言うのは有り難い事だったのだ。それでも、夏月の学校生活を優先している辺りに、楯無の人としての本質が見えると言えるだろう。
その後楯無は、夏月を先程の大広間に連れて行くと、其処で自身の二人の娘を呼び寄せて夏月に紹介した。
「彼女達は私の娘だ。さ、自己紹介しなさい。」
「更識刀奈よ。同じ位の歳だから敬語は要らないし、気軽に刀奈って呼んでちょうだいな♪」
「更識簪です。其の、宜しく。」
「一夜夏月だ。此れから宜しくな。」
快活な印象のある少女は『刀奈』と名乗り、少し引っ込み思案っぽい少女は『簪』と名乗った……恐らくは刀奈の方が姉なのだろう。其れに対し、夏月も自己紹介をしてターンエンドだ。
その後、夏月は刀奈と簪に屋敷内を案内され、道場を案内されたその時は、『少しばかり身体を動かしたいな』と言った事で、其れを聞いた刀奈と突然のスパーリングを行う事になり、その結果は互いに全力を出した上でのダブルKOだった……刀奈は得意の柔術で夏月の打撃をいなしていたのだが、夏月の打撃は予想以上のモノであり、いなせなかった攻撃をガードした腕は腫れ上がって段が付くほどだったのだ。
だが、この結果に刀奈は満足そうな笑みを浮かべ、簪は驚いた表情を浮かべていた……実は、刀奈は次代の楯無となる事が決定しており、幼い頃からありとあらゆる英才教育を施され、戦いに関しても、其れこそ殺しの技すら身に付けているのだが、そんな刀奈と互角に遣り合った夏月の力はトンデモナイの一言であり、刀奈は同世代で自分と互角の戦いが出来る夏月の登場に喜び、簪は刀奈と互角に戦える夏月の実力に心底驚かされたのだ。
だが、同時に其れは夏月の相手が刀奈だったからとも言える……刀奈の同世代では頭一つ抜きん出ている実力が、大多数の否認と少数の肯定と言うアンバランスな評価によって開花し切れず燻ぶっていた、地道な努力によって鍛えられてきた夏月の力を一気に引き出したのである。
『織斑一夏』の時には開花しなかった其の力は、皮肉な事に『織斑』の名を捨て、『一夜夏月』となった事で覚醒したとも言えるだろう……或は、スコールも夏月の潜在能力は更識でならば発揮されると考え、更識に預ける事にしたのかも知れない。真相はスコール本人にしか分からないが。
因みに、屋敷を案内中に簪が同い年で、刀奈は一つ年上だと言う事を夏月は知ったが、自己紹介の時に『敬語はなしで』と言われたのを思い出し、敬語は使わずに話していたが、年上ではあるので最低限の礼儀として『刀奈さん』と呼ぶようにしていた。……刀奈本人は『敬称も要らないのに』と言った感じだったが。
――――――
こうして始まった更識家での生活は、夏月にとってとても心地いいモノだった。
夏休み期間中だったと言う事もあり夏月は簪の夏休みの宿題を手伝ったり、刀奈の美術の課題であるデッサンのモデルを務めたり、道場でトレーニングをしたり、楯無から『更識』の仕事の事を教わったりと毎日が充実していた。
『更識』に仕えている『布仏』とも出会い、刀奈の従者である『布仏虚』と、簪の従者である『布仏本音』と知り合いになり、本音から『一夜だからイッチーだね』と言われ、夏月も『なら君はのほほんさんだな』と、互いにニックネームを送り合っていた。
更識家で過ごすようになって何よりも夏月が嬉しかったのは、更識の人間全員が自分の努力を認めてくれた事だった。
楯無だけでなく、その妻の『更識凪咲』、刀奈と簪は元より、使用人として働いている者達も夏月の努力を認め、そして褒めてくれた。台所を任されている料理人達に至っては、夏月を師匠と呼ぶ連中まで居る始末だ。(日頃の礼としてまかないを作ったら、何故かそう呼ばれるようになった。)
そしてその努力を認められ、褒められた事で夏月はより己を磨き、其れに刺激を受けた刀奈も己を高めようと互いに切磋琢磨する関係になって行った……スパーリングでは、剛の夏月と柔の刀奈では刀奈の方が有利なのだが、『柔よく剛を制す』をモノともしない夏月の剛の技がぶつかる事で毎回時間切れ引き分けか、ダブルKOで決着は付かずだったが。
また、ロランとは少し古風だが文通を行っており、オランダから届くエアメールも夏月の楽しみの一つであった。(オランダを発つ際に、ロランから連絡先と住所を教えて貰い、夏月は最初の手紙で自分が暮らしている更識家の住所を教えておいたのである。)
尤も、電話では国際通話になるので通話料金がトンデモナイ事になるし、LINEのメッセージもそもそも日本とオランダの時差を考えるとオランダが夕方の時、日本は深夜になるので使う事が出来なく、文通と言うのが一番の交流手段であった訳だが。
そんな充実した日々を過ごしていた夏月だったが、一つだけ気になる事もあった。刀奈と簪の姉妹関係だ。
不仲と言う訳ではなく、刀奈は簪の事を大事にしているのは良く分かり、何かと簪の事を気に掛けているのだが、そんな刀奈に対して簪は一歩引いていると言うか、少し苦手意識を持っているように夏月には感じられたのだ。
だからある日、夏月は思い切って刀奈に聞いてみた、『簪と巧く行ってないのか。』と。
その問いに対し、刀奈は軽く溜め息を吐くと、『まぁ、簪ちゃんを見てればそう思うわよね。』と前置きした上で話し始めた。
「私は更識の長女として生まれ、其の一年後に簪ちゃんが次女として生まれ、そして私が五歳になるまでに男児が生まれなかった事で、私は五歳にして次代の楯無になる事が決まったの。更識家では、第一子が女児であった場合、第一子が五歳になるまでに男児が誕生しなかった場合、長女が次代の楯無となるのよ。
次代の楯無となる事が決まったその日から、私にはありとあらゆる英才教育が叩き込まれたわ。
語学に哲学に人心掌握術、ありとあらゆる武術と格闘技だけでなく暗殺術まで色々とね……普通なら音を上げてしまうところなのでしょうけれど、生憎と私には全く苦にならなかった。それどころか、次々と新しい事が出来るようになるのが楽しくて堪らなかった。お父様を始めとした周囲の大人達も、そんな私を『更識始まって以来の天才』と評していたわ。
でも其れは、簪ちゃんにとっては余りにも大きくて重いモノに映ってしまったみたいで、あの子は私に対してコンプレックスを抱いているのよ……そんな事は全然ないのに、『私はお姉ちゃんと違って何も出来ない』位は考えているかも知れないわね。
まぁ、私が簪ちゃんにカッコ悪い所見せたくないって言う思いで、簪ちゃんの前ではより張り切っちゃったって言うのも原因の一つではあると思うけど。」
「自ら妹のコンプレックス増長させてどうすんだよ……」
「仕方ないでしょ?お姉ちゃんって言うのはね、妹や弟の前ではカッコいい姿を見せたいモノなのよ!」
「うん、マッタク分からん。」
簪が刀奈に対してコンプレックスを抱いている事は理解出来たが、刀奈が言った『姉は妹や弟の前ではカッコいい姿を見せたいモノだ』という意見は夏月には理解出来なかった。少なくとも『織斑一夏』であった頃、只の一度も千冬のカッコいい姿と言うモノを見た事が無かったからだ。
料理をさせればダークマターを生成し、片付けをさせれば片付けるどころかグラウンドゼロが発生し、服は脱げば脱ぎっぱなし、酒を飲んだら毎度毎度己の限界を超えて飲んで酔い潰れていたのだから刀奈の意見が理解出来ないのは仕方ないだろう。
「簪ちゃんには簪ちゃんにしか出来ない事もあるし、デジタルな事に関する技術と知識に関してはあの子は私よりも上なのだけれど、私のせいで自分に自信が持てなくなってしまっているのよ……私が其れを言ったところで、何の効果も無いと言うのが歯痒いわよね。」
「まぁ、確かに自分のコンプレックスの原因に幾ら褒められたところで、其れを素直に受け取る事は出来ないからな……でも、そう言う事なら俺に任せてくれないか刀奈さん?
此の家に居候の身である俺だからこそ、若しかしたら簪のコンプレックスを払拭出来るかも知れないからさ。」
「……一理あるわね。ゴメンね、私達姉妹の問題を……」
「気にするなよ。刀奈さんと簪は、何処かの馬鹿姉弟と違ってまだやり直せるからな……何より、アイツと違って刀奈さんは、簪の事を見てるんだ。」
「夏月君?」
「いや……そんじゃちょっと簪の所に行って来るわ。」
小声で呟いた事は刀奈には聞こえていなかったようだが、夏月は刀奈と簪が『織斑一夏と織斑千冬』のようになって欲しくはないと思っている様だ……一夏と千冬の場合、遠からずその関係に終わりが訪れていただろうが、刀奈は簪の事をちゃんと見ているので、まだ改善は出来ると夏月は考えたのだろう。
其処からの夏月の行動は早かった。
「簪、ちょっといいか?」
「夏月?うん、良いよ。」
「そんじゃ、失礼しますっと。」
簪の部屋に向かうと、扉をノックして簪の了承を貰って入室……したのだが、初めて簪の部屋に入った夏月は驚いた。
何故かと言うと、簪の部屋は所狭しとアニメや特撮のポスターが張られ、棚には無数のフィギュアとガンプラ、そして中型のモニターとそれに接続されている複数のゲーム機……見事なまでの『オタク部屋』だったからだ。
だが、夏月は驚きはしたモノの怯みはしない。
「コイツは何とも見事な領域展開だな簪?五条さんもビックリだぜ。」
「私はマダマダ。五条さんと比べるのも烏滸がましい。」
先ずはアニメネタを振ってみると、簪は其れに秒で対応した……簪は、どんなジャンルのアニメや特撮ネタを振られても対応する事が出来る、全ジャンルのガチ勢でもあるのだ。極めたオタク道は、ある意味で極限と言えるのかもしれない。
「其れで、私に何の用かな夏月?」
「単刀直入に聞くけどさ、簪は刀奈さんの事苦手なのか?」
先ずは良い感じで掴みに成功した夏月は続いて真っ直線に切り込んだ……デリケートな問題なので、本来は外堀から埋めて攻めるべきなのだが、そんな事は夏月には出来ないので、イキナリのダイレクトアタックをかましたと言う訳だ。
「苦手って言うか……少しコンプレックを抱いているのは間違いない。」
だが、その効果は抜群で、簪は夏月に己の想いを話し始めた。
「お姉ちゃんは五歳の頃から次の楯無になるべく色んな教育をされていた……きっと私だったら音を上げてたと思うけど、お姉ちゃんは其れを苦にする事なく次々と熟していて、『更識始まって以来の天才』とまで言われてた。
お姉ちゃんが凄い人だって言うのは誇りだけど、でも同時に私には何もないんだって、お姉ちゃんと比べたら何も出来ないって、そう思ったの……だから、お姉ちゃんが優しくしてくれるのも、少し辛かったし、お姉ちゃんの優しさを素直に受け取れない自分がより嫌だったんだ。」
矢張り簪は簪で思うところがあった様だ。
刀奈に対してコンプレックスを抱き、そのせいで刀奈の妹を思う気持ちを素直に受け取る事が出来なくなってしまい、一歩引いた態度を取らせるようになってしまったのである……刀奈の頑張りが、より簪のコンプレックスを増長していたと言うのも、間違いではないのだろう。
「成程な……だけど、簪は簪で刀奈さんは刀奈さんだろ?姉妹だからって同じじゃないんだ、簪は簪の得意分野を伸ばして行けば良いんじゃないのか?少なくともデジタルな面に関しては、刀奈さんよりも簪の方が上だって俺は思ってるぜ?
其れにな、刀奈さんは完璧超人じゃないぜ?本人から聞いた話だけど、刀奈さんは簪の前ではカッコいい所見せようとより張り切ってたんだと……優雅に水面を泳ぐ白鳥が、水面下では必死に足をばたつかせてるのと同じなんだよ。
刀奈さんは決して完璧超人なんかじゃなく、妹にカッコいい所を見せたいだけの姉なんだ。何よりも、簪には簪の良い所があるんだ、だとしたら刀奈さんと自分を比較する事自体が無意味だと思わないか?」
「!!」
だが、夏月の言った事は簪にとっては衝撃だった。
『簪は簪で刀奈は刀奈』、ともすれば簪のコンプレックスを刺激しかねない言葉だが、夏月は簪には刀奈にはない簪だけの良い所があると言った事で簪の心に突き刺さるモノがあった様だ。
夏月のセリフを聞いた簪も、『刀奈と簪は違う』と真っ向から言い、刀奈と自分を比較せずに、己の良い所を認めたくれた事が嬉しく……自然とその瞳からは涙が溢れていた。そう、歓喜の涙が。
「か、簪!?ゴメン、言い過ぎたか?」
「ううん、そうじゃないよ夏月……嬉しかったの、私を認めてくれた事が。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、私の事を褒めてくれたけど、更識の分家の人達は、お姉ちゃんばかりを褒めて、私の事は『不出来の妹』って言う事が多かったから。更識の外の人間である夏月に認められたのが嬉しかったの。」
其れに夏月は少し驚いたが、哀しみの涙でない事を知るとホッと息を撫で下ろした……簪を悲しませたと刀奈と楯無に知られたら明日の朝日を拝む事は出来なくなってしまうだろうから。
一しきり泣いた後、簪は夏月に『ありがとう』と礼を言うと、その後は刀奈とも話をして『お姉ちゃんは私の事を気に掛けてくれてたのに、避けるような態度を取ってゴメンなさい』と謝り、刀奈も『私の方こそ、簪ちゃんに辛い思いをさせちゃってたわ。ゴメンね。』と謝り、刀奈と簪の間にあった僅かな溝は一気に埋められたのだった。
「ありがとう夏月君。貴方が居なかったら、私と簪ちゃんはずっとあのままだったかも知れなかったわ……本当に感謝するわ。」
「礼を言われるほどじゃないだろ刀奈さん?
姉妹仲ってのは良いに越した事はないからな……でもまぁ、簪の事を『不出来の妹』とか言った分家の連中は許せないよな?簪の事を何も知らないクセに勝手な事言いやがって。」
「そうよねぇ?本家に楯突いたら如何なるか思い知らせて上げましょうか……いっそカチコミ掛けてやろうかしら?」
「良いな、やっちまうか。」
後日、更識の分家の幾つかが割とシャレにならないレベルの大打撃を受ける事になったのだが、その大打撃を与えたのは紅い眼の少女と金色の目の少年だったとか……其の二人が何を言ったかは不明だが、此の日を境に分家の人間が簪に対して『不出来の妹』と言う事はなくなったのであった。
刀奈と簪の仲が良好な状態になった後は、改めて夏休みを思い切り楽しんだ。
海やプールに夏祭りと言った定番から、アウトドアや登山に海外旅行まで色々な事を――その際、夏月は海やプールでの刀奈と簪の水着姿と、夏祭りの浴衣姿にスッカリ見惚れてしまい、刀奈と簪も水着姿となった夏月の細マッチョなボディと、夏祭りの甚平姿に見惚れたりしていた。
また、アウトドアの際には夏月が持ち前の主夫力を発揮し、定番のバーベキューや飯盒炊飯で激ウマ料理を披露した。バーベキューでは只肉や野菜を焼くだけでなく、アルミホイルに包んだ海鮮の蒸し焼き、手作りソーセージ三種(ガーリック、ブラックペッパー、チョリソー)等を用意し、〆に具はなく、ショウガとニンニクを利かせてオイスターソースと醤油でシンプルに仕上げた焼きそばを提供。
飯盒炊飯では定番のカレーを作ったのだが、只のカレーではなく手作りしたカレールーを使ったスパイスの利いたパンチのあるチキンカレーが大好評だった。序に合わせて作った『ソーセージとエリンギのスープ』も大好評であった。
「ちょっと待とうか簪。なんでストⅢサードで普通に春麗選択してんだよ!普通に最強キャラを、サードの闇と言われるキャラを使うなっての!」
「春麗は最強……此れで削り殺す。」
「甘いぜ簪、伝説を見せてやる!鳳翼扇に対して、伝説のウメハラブロッキングじゃあ!そしてカウンターの豪波動拳にスーパーキャンセルを掛けて瞬獄殺だ!!」
「まさか、ウメハラブロッキングをやって来るとは思わなかった……やるね夏月。」
「ぶっつけ本番だけどな……失敗してたら俺が死んでたわ。」
「それじゃあ、今度は私と夏月君ね♪」
出掛けない日は出掛けない日で、ゲームを楽しんでいた。テレビゲームだけでなく、遊戯王やポケモンカードと言ったアナログなゲームを含めてだ。因みに格ゲーでは一夏が最強で、遊戯王では簪が最強、将棋やチェスでは刀奈が最強だった。
そうした楽しい夏休みを過ごしながらも、夏月は刀奈と共に暗部としての訓練を受け、簪は将来『楯無』となる姉をサポートする為にバックスとしての訓練を受け才能を開花させて行った。
暗部としての訓練を受けると言う事は、当然夏月も暗殺術と言った『殺し』の技を学ぶ事になった訳だが、夏月は『楯無さんは、殺しはさせないって言ってたけど、義母さんが迎えに来た時には絶対に必要になる』と考えて、其れも全て身体に覚え込ませて行ったのだった。
そんなこんなで夏休みも残り数日となったある日の事。
うだるような暑さが続き、埼玉県の熊谷市と、茨城県の大子町が共に最高気温45℃を観測したその日、更識家の昼食は夏の定番である『冷やしそうめん』だった。
但し、普通の冷やしそうめんではなく、器に盛ったそうめんに、蒸し鳥の冷製、キムチ、モヤシとホウレン草とゼンマイのナムルをトッピングし、鶏ガラで出汁を取ったピリ辛の冷たいスープを掛けた『冷麺風冷やしそうめん』だが。
「ん~~、とっても美味しい!キムチとピリ辛のスープで食欲が刺激されて、何杯でも行けちゃうかも!」
「夏月って本当に料理が上手だよね?厨房の人達が『夏月さんには勝てねぇです』って言うのも納得かも。」
「料理の腕には自信があるからな。
自慢じゃないが、此処に来る前に通ってた学校では、実家が定食屋のダチ公に調理実習の時に、『俺が店継いだら、お前の事従業員として雇いてぇ』って言われたくらいだからな。二学期から通う事になる学校で、女子のプライドを折りまくるかもだぜ。」
「止めて夏月君!女子のライフはもうゼロよ!!」
「HANASE!!」
「デッキ一枚を残して全てドロー。全部モンスターカード。魔導戦士ブレイカー、追加攻撃×二十五回。」
その食卓では、実に和やかな昼食風景が展開されていた。夏月と更識姉妹のこうした遣り取りも、更識夫妻にとっては最早日常となっている――其れだけ、夏月が更識家に馴染んでいると言う事でもあるだろう。
だが、此の日は少しばかり様子が違っていた。
そうめんを食べ終えた楯無は目を瞑って腕を組み、まるで侵入者の気配を探るかのような様子を見せていたのだ。
「お父様?」
「お父さん?」
「楯無さん?」
「……気配が何時の間にか一つ増えているね?しかも近い……其処か!!」
夏月と更識姉妹の問いに、『気配が一つ増えている』と答えた楯無は、床の間にあった刀を手にすると其れを畳に突き刺す!!其れこそ、床下に人が居たら其れを刺殺する勢いでだ。コソコソ嗅ぎ回る不埒の輩には容赦しないと言う事なのだろう。
「中々に良い勘をしてるじゃないか更識楯無……だけど今回は、約10cm程ずれていたみたいだね。まぁ、あと10cm後ろを刺されてたら、私お陀仏だったけど。」
だが、楯無の一撃は約10cmほど外れていたようで、床下からはそんな声が聞こえて来た……少なくとも床下に忍んでいる人物は相当な胆力があるのと言うは間違い無いだろう。約10cmずれていたとは言え、目の前に刀が突き刺さって来たら大抵の場合は驚いて言葉を発する事が出来なくなってしまうモノなのだから。
「この声……もしかして束さんなのか?」
「大正解!!」
夏月はその声に聞き覚えがあったので、声の主が『篠ノ之束』なのかと問うと、超ハイテンションな『大正解』の掛け声と共に、和室の畳が吹き飛び、其処から特徴的なスミレ色の髪にうさ耳のカチューシャを装着し、童話『不思議の国のアリス』の主人公であるアリスを連想させるエプロンドレス……の胸元を大きく開けた衣装を身に纏った女性が現れた。
「やぁやぁ、久しぶりだねいっ君!いや、今はかっ君って言うべきかな?
初めましての人には初めまして!皆のアイドルにして稀代の天才、正義のマッドサイエンティストの束さんだよ~~、ブイブイ!」
その正体は、ISの生みの親である『篠ノ之束』で、一夏だった頃の夏月の数少ない味方でもある人物だった……恐らくは、ドイツで誘拐された一夏の消息を追い続けた結果、更識家に辿り着いたのだろうが、まさか床下から畳を吹き飛ばして登場するとは誰も思わなかっただろう。天井裏に潜んでいて、天井をぶち抜いて参上と言うのであればまだ予想出来るが、畳ぶち抜いて床下からコンニチワなどと言うのは大凡予想出来るモノでは無かっただろう。
何にしても、日本の暗部である更識家に、本日この時をもって、最強にして最凶で最狂の天才で天災が降臨したのだった……
To Be Continued 
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